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「屋台組」が守る飛騨高山の宝物
高山祭屋台 鳩峯車(きゅうほうしゃ)~vol.1~ 屋台のはじまりと歴史
日本三大美祭にも数えられる高山祭。
これは、日枝神社例祭「山王祭」(4月14日・15日)と桜山八幡宮例祭「八幡祭」(10月9日・10日)の総称です。
豪華絢爛な屋台(やたい)が魅力のこの祭は、2016年に「山・鉾・屋台行事」として「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されました。
祭屋台の維持管理から祭礼での曳き出しまでは「屋台組」という住民組織によって担われています。この連載では秋の高山祭、八幡祭で曳き出される屋台の一つ「鳩峯車(きゅうほうしゃ)」を守る「鳩峯車組」を取材し、その歴史や魅力に迫りました。
鳩峯車は2台目の屋台
お話を伺ったのは、鳩峯車組の一員として祭に携わる川上敏彦さん・富子さんご夫妻。
この土地で生まれ育ち、屋台を守る大人たちを見て育ったという富子さんはもちろん、婿としてこの地域に入った敏彦さん、そしてお子様たちもみな、鳩峯車を宝物のように思っていらっしゃるのが伝わってきました。
「実は、現在の屋台は2台目なんです」
鳩峯車の歴史について伺おうとした矢先、この一言に驚きました。
高山祭の起源は戦国~江戸初期、金森氏統治の時代に遡ります。享保3年(1718)頃からは屋台の原型が登場するようになりました。
当時、火災による消失や曳き出す際の破損も多く、屋台の廃止や再建、また古い屋台が他の地域に譲られるなどの変化もあったのだそう。
鳩峯車組も例に漏れず、破損した屋台を手離し、再建したという経緯がありました。
このように改修や再建の機会がある度、組同士が競い合うように意匠が工夫され、現在のような豪華な姿になっていきました。
かつての屋台「大津絵」
「最初に作られたのは、延享4年(1747)創建の『大津絵(おおつえ)』という屋台でした」
そう言って見せていただいたのは、一風変わった神仏画の資料でした。
「大津絵」というのは、江戸時代に滋賀県大津市の東海道で流行した、神仏画や風刺画のようなもの。安価な画材を使って描かれており気軽に購入できため、お土産品や庶民の信仰の対象として出回っていたそうです。
題材となったのは「外法の梯子削り」という絵柄。七福神の一人、福禄寿の長い頭に梯子をかけて頭を剃るというユーモアあるものでした。
「能や謡曲を元にした屋台が多い中、民衆文化から着想しているセンスが大好きですね」と笑う川上さんご夫妻。
曲線が美しい唐破風屋根に四輪の車、福禄寿と唐子のからくり人形も演じられた屋台「大津絵」は人々を楽しませました。
最初の屋台「大津絵」は、文政9年(1826)に破損したことをきっかけに、手離されることに。
本体は現在の下呂市、飛騨金山の下原八幡神社に渡り、改修を経て姿は当時と少し変わっているものの、今も現存しています。
また、からくり人形は現在の飛騨市、古川祭の屋台組「青龍台組」に渡りました。当時の人形は今は使われなくなり保管されていますが、現在も「外法の梯子削り」のからくりが演じられています。
そして現在の鳩峯車へ
屋台を手離した大津絵組は10年あまりの休台となり、他の形で祭に奉仕していました。しかし次第に祭好きの血が騒ぎ始めたのでしょうか。天保6年(1835)頃、「再び自分たちの屋台を!」という気運が高まります。
地域で「家持ち九件」と呼ばれた旦那衆(豪商)が中心となり、「どこにも負けない立派な屋台を」と相談を重ねました。
京都で作られた綴れ織の幕や、名古屋へ発注した立派な御所車などが見どころの待望の屋台「鳩峯車」が天保8年(1837)いよいよ完成し、屋台組も「鳩峯車組」となります。
その後明治24年~30年(1891~1897)に渡った「明治の大改修」を経て彫刻も備えられ、現在と同じ姿になりました。
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2018/12/14UP 取材協力:巻葉屋 分隣堂
高山祭屋台 鳩峯車
アクセス | 〒506-0842 岐阜県高山市下二之町上組 |
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開催日 | 秋の高山祭「桜山八幡宮例祭」 10月9日・10日 |