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伝統とモダンの共存
渋草焼芳国舎:お店編
その昔高山への道のりは険しく山深く、今のように道路や鉄道が通っていなかった時代には物を運ぶのも大変な苦労でした。関所が設けられ関税もかけられたため尾張の国(今の名古屋)から運び出された物資が飛騨に届くころには値上がりしてしまい、物流に恵まれませんでした。そこで飛騨の人たちは外界からの物資に頼るのではなく、できるだけ自分たちの使うものは自分たちで作ろうと試みました。そんな中で発展したのが飛騨の焼き物、「渋草焼」です。
古い町並みから通りを一つ奥に行くと、町家の続く中に白い暖簾を見つけます。見るとお店の前の立て看板がタイルになっています。「創業天保十二年 渋草焼窯元 芳国舎」味のある格子戸をくぐると美しい食器が棚にもテーブルにもディスプレイされており、まるで小さな美術館。戸口から注ぐ昼の光を浴びたそれは、どれも美しく光沢を帯びて訪問者の姿を映しこんでいました。
急須、湯呑み、茶碗。どんなに美しくても並んでいる商品はやはり美術品ではなくどれも日用品。どんなお料理を乗せたらいいんだろう?そんなことを考えながらお店の中を一周すると、奥からご主人が出てきました。「渋草焼は天保12年(1841年)の江戸末期、飛騨の代官役人が、地元の産業発展のために尾張瀬戸・加賀九谷といった焼き物の本場から職人を呼び寄せたのが始まりです。当時幕府の直轄領だった高山では幕府の御用商人がパトロンでした。燃料の木はたくさんあったし尾張から物を運ぶには関所を通らないといけないから物流が悪く自活しないといけない。そういった土台があって飛騨の焼き物は定着し、170年以上の歴史を誇る産業に発展しました。」
「芳国舎」は明治12年に勝海舟の命により会社として登録されました。最初、石が見つかるまで近辺の陶土を使っていました。陶器は磁器のような透光性がなく、あの透けるような美しい白は出ません。また、石粉を焼き締めて作る磁器は陶器よりもかたくて丈夫です。商品ラインナップも冠婚葬祭具からスタートし、花瓶や水鉢、食器、日用品等多種に渡ります。
原料の石がなかなか見つからなくて、いい石が見つかってからは技術も向上しました。次第に国際博覧会にも出品するようになりパリ万博では銅賞を受賞。「戦時中の金属類回収令で受賞メダルは持っていかれてしまいましたが、表彰状は今でも大切に飾ってありますよ。」壁のショーウィンドウを見ると確かに額縁に入れられた賞状が。
世界的に評価される高い技術には実はすごいこだわりが。「ちょっとその茶碗を照明に透かして見てください」言われるままに光を当てた湯呑み茶碗。内側が綺麗に透けました。「その茶碗、外にも内にも同じ模様が描いてあるでしょう?うちのこだわりは絵付けは全部手描きですること。磁器の性質は光を通すこと。だからそれを最大限活かすために内側に模様を描く場合にはできるだけ表の絵と合うように絵付けする。白い部分はより白く、青い部分はより鮮やかに青く。美しい食器を作るために機械ではできないような技術を駆使しているんです。」そう言われてよく見ると、どの食器も同じように見えて色や形など微妙に違います。
改めて店内を見回すと様々な食器がありますが、どれも美しい柄が描かれています。機械で柄をプリントする方が簡単で安く仕上げることができますが、フチまで綺麗に柄を入れたり、コップなど取っ手の際まで綺麗に柄を入れることができるのは手書きならでは。柄も基本は伝統的な縁起物が多いですが、青磁と染付の良さを取り入れた作品を作り、青い部分を水の波紋に見立てて水鉢の底に鯉を描いた遊び心のあるものも。「紅葉など浮かべて飾っておくと趣がありますよ」というご主人。他にも若い絵付師の方が描いたというモダンな流線模様の食器や主力商品の菊茶碗をアレンジしたものも。
170年に渡る歴史の中で磨きぬかれてきた技術と新しいものの共存。ちょっと立ち寄って見てみるだけでも素敵な作品がたくさんありますので古い町並み散策の際にぜひ足を伸ばしてみてください。
2015/7/20 UP 取材協力:芳国舎
渋草焼窯元 芳国舎
アクセス | 住所:高山市上二之町63番地 TEL:0577-34-0504 芳国舎の商品は飛騨物産館でも扱っております。 ※高山駅から徒歩10分 |
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